2017年09月16日

アシダカグモ。

皆さんこんにちは。私は、チャームサロンカワサキの中谷まさのぶです。

今回は、私と妹(土橋素子)の、幼い頃のキョーフ体験譚です。


子供の頃、住んでいた家は海南の栄通りの入り口にあって

店舗兼住宅になっていました。薬局の後を父が居抜きで買い取って、

ここへ引っ越したのです。昭和46年。大阪万博のあくる年の、風薫る5月のことでした。





敷地は50坪もあったでしょうか。

表通りに面した間口がとても狭く、

その分、あまりお商売の役に立たない横の狭い路地に面した奥行きが異様に長い、

長々方形の家でした。




家は2階建てで、傾斜80度の、京町家でもそれはないわ~、と言うほど急な、

梯子の様な階段を上がった2階が丸々居住スペースでした。

間取りもその形状に合わせるように、                                                                        
いくつかの部屋が廊下伝いに奥へ奥へと伸びており、

小学3年の自分には、それまで住んでいた、2間ほどの、トイレすら共同であった家のことを思うと、

メダカがいきなりブリになったみたいな高揚感で、越したその日やあくる日は

、妹と二人、すぐに見慣れるであろう家の中を「探検」 などと言って徘徊していました。

しかしあくまでも新築、ではなく居抜きなので、

うっすらと積もった欄間の埃にも、破れた障子を張り替えた痕にも、

前の住人がつい今しがたまでここで呼吸をしていた「気配」のようなものが満ち満ちていて、

何か子供心にすぐに打ち解けない不寛容さを示していました。





「探検」が「日常」へと変化しすると、「気配」はより濃密になったようでした。

両親はお商売をしているので、私たちが寝入る頃でないと2階には上がってきませんでした。

1階の店舗と、2階の住居は、床板一枚なのですが、

長い奥行きと梯子階段によって月と地球ほどの距離がありました。

子供たち二人にとって、この奥行きは、恐怖でした。

夜、寝ようと灯りを蛍光灯から豆球に換えると、

隣の部屋からひそひそと話声が聞こえるような気がしました。

破れた障子に貼ってある、月のマークの花王のロゴが少し笑ったように感じました。

国道42号を通り過ぎる車やトラックのタイヤの擦過音が物の怪の咆哮のようにも聞こえました。

妹は、隣で爆睡しています。

私は、隣の部屋できっとひそひそ話をしている魑魅魍魎や、国道を行く猛獣とタタカうために、

枕元にはいつも姫だるまを置いて味方にしていました。






引っ越して初めての夏が来ました。

日方小学校からのプールの帰り道、栄通りを歩くと自動ドアの無い時代なので、

店店の前からエアコンの冷風が汗ばんだ頬を撫でてくれました。





ウチのお店では、LPレコードからハワイアンが流れていました。

水冷式のエアコンからは、ギュンギュンにアラスカの冷風が送り届けられます。

子供心に、何とも「ときめく」気分でした。

ランドセルを背負ったままお店の中を一直線に駆け抜け、扉一枚開けると、

「今の全部ウソでっせー」と言わんばかりに強引な真夏の湿気に茫然としました。

梅雨が明けてすぐの、清く正しい真夏が、お店以外に満ち満ちていました。


食堂では、妹が麦茶を飲んでいました。私も、冷蔵庫から麦茶を出して、

カルピスのガラスのコップに3杯、立て続けに飲み干しました。

食堂の天井からは、茶色くテラテラ光る「蠅取り紙」が吊るされ、

銀蠅ショウジョウ蠅がくっついています。




ひときわ大きい肉蠅が羽根を絡めとられて、無念なり。という風情で

足をバタバタさせています。

見るともなしに蠅取り紙を見ていると、唐突にお腹がきゅるきゅるいってきました。

いきなり冷たいのを煽ったからでしょうか。お腹が下ってきたのです。


トイレは、長方形の家の、表通りから離れた一番奥にありました。

昭和46年。もちろん汲み取り式です。

「トイレ行ってくら~」。妹に言い残して、狭い廊下を抜け、トイレに入りました。

小便所の奥が、大便所になっていて、靴を脱ぎ、

段差50㎝ほどの、小上がりの上の扉を開けて中に入りました。






お腹は、ぎゅるぎゅるでした。瞬発的にコトを終えて、(ふう)。と一息ついて、

見るともなしに便槽の中を覗きました。

便槽は広いものではなく、一定の幅を備えた筒状でした。

その筒の中から、奇妙な物体がものすごい勢いで、私の跨いでいる足元めがけて駆け上がってきました。

(な、な、な、な、?) 物体は最早便器の陶器の白い部分にまで競りあがり、

今まさに私の右足に乗りかかろうとしていました。クモ。でした。学名アシダカグモ。





大人の掌を、広げたくらいの大きさのクモが、仄暗い便槽の奥に潜んでいて、

こっちの「ぽっとん」に驚いて駆け上がってきたのです。

「でええええー!」パンツを下したまま跨っていた便器から飛びのいたのですが

パンツで足が絡まって扉に体をぶつけたら扉がきっちり閉まっていなくて、

50㎝の段差をダンゴ虫よりも丸く下へと転がり落ちました。

コンクリートで膝を打ちました。大声に驚いた妹が食堂からやってきて、

パンツを下ろしたまま床に転がっている私を見て、「どないしたん」 と言いました。

「クモや!」 

「クモがどないしたん」 。

私は、扉の向こうを指さしました。

巨グモは姿を消していました。






長かった夏が、ありゃま、と気抜けするくらいにヤル気をなくし、

急に涼しくなったお盆過ぎのことでした。

私と妹は、シャッターを閉めるのを手伝っていました。

夜の、7時でした。今のように電動シャッターではありませんでしたが、

大方のお店が木戸の時に、鉄製のシャッターは珍しく、

ガラガラガラとシャッターを下すのが、子供の頃の楽しみでした。

父親が、お店の間口の3カ所に、支柱を立てます。

そうすると私たちは、奪い合うように、先が鍵型になった鉄の棒を手に取るのです。

それで、入り口の上に格納されているシャッターの下の窪みにフックを引っ掛け、

力を込めてシャッターを引き下ろすのです。

小学3年の私は、余裕でフックを引かっけて、シャッターを下ろすことができました。

小学1年の妹は、身長が足りないので、背伸びをして、

思い切り背伸びをしてようやく鉄の棒がシャッターに触れるだけだったので、

私が先にフックを引っ掛け、妹が、ぶら下がった鉄の棒を下に引き下げるのです。

シャッターは結構重く、私が力を溜めて引っ張って、ようやく、

ガラガラガラと下りてくる、そのような構造だったので、

妹の力ではなかなか、勢いよくガラガラ、と言うわけにはいきません。

それでも妹は、鉄の棒に全体重を預け、引っ張ると、

ガラ、ガラ。シャッターは少しずつ、降りてくるのです。

妹は、顔を真っ赤に紅潮させ、それでも、こんな嬉しいことはない、といった満面の笑みで、

鉄の棒を懸命に引き下ろしていました。


その時、ゆるゆると下りてくる鋼鉄のシャッタ―をぼんやり眺めていた私の網膜の隅に、

シャッターと一緒に、何かぼんやりとした黒い塊が下りてくるのが見えました。

(ん?)

 黒いもやもやは宵闇に紛れて姿かたちが判然としません。

やがてシャッターが中程まで下ろされた時、店の中の鮮明なハロゲン球に照らされて、

黒いもやもやがその正体を現しました。

クモ、でした。

大きなクモが、店の入り口のどこかを固定点にして糸を垂らし、

シャッターと共に降りてきたのです。

私は、立ったまま腰が抜けてしまいました。

私の口から、防災無線のサイレンのような、犬の遠吠えのような音が漏れました。

数秒の出来事でした。

こぼれるような笑みを湛えた、おかっぱの、

火垂るの墓の節子と瓜二つの妹の髪の真上に、

関取の手の平ほどのクモが、高級シルクのように、ふわさ。と舞い降りました。



アシダカグモは益虫で、これが家に2匹いるとゴキブリがいなくなる、と言われています。仲良くするのが一番。なのですが・・・・|д゚)





               


  

  


Posted by チャームサロンカワサキ&フェイシャルクラブ at 20:04Comments(0)せんむのブログ